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本稿では
- この世界の仕組み、人間という存在はどういうものなのか?
(できる限り具体的に) - いわゆる根源・神とはどのように理解したり、感じたり、一体になり得るか?
(実際的なワークとして)
について
(1)映画マトリックスと(2)漫画のスラムダンクを例にしながら、
僕が実際に体験してきたことをシェアします。
(主な図は、9枚です)
僕も心理学から始まって15年くらいこの旅のキャリアがあります。
(割と長く経験してしまいました…)
その集大成のような話です。
この世界の仕組み(=仮想現実、マトリックス)を理解・体感する、その過程では「五蘊皆空」でしかないと気づく事にもなります(後述)。
(動画はこちら)
この世界の仕組み理論と体感するための具体的な方法論
話の流れとしては大きくは2つ、
①この世界の仕組みがどうなっているか?理論的な部分と
②それをどう体感し得るか?具体的な方法論
になります。
先日の「この世の仕組みを理解しよう」というシェア会で、
ご説明してワークもしました。例えば、
発作が最近起こりやすくてシェア会の後の夜も発症。
嫌だなと思いながらもこのワークを思い出していたらすーっと息がしやすくなりそのまま眠ってしまいました。
あれは偶然だったかもと思いましたが、確信に変わりました。翌日の日中・夜にもまた発作が起きたのでまたワークをしたらやっぱりすぐに収まりぐっすり眠れました。
と言ったご感想をいただきました。
一言でいうと神を感じようとするワークです。
特に症状がない方でも、ワークでなんとも言えない安らぎだったり、
自分は「あちら」から来てるんだ、
という体感は普通に感じられますので、
こうしたご感想は非常に理解できるものです。
僕もこの道を長く経験してきからこその体感なのですが、この方も僕の講座を受講された方ということも要因になっていそうです。
昔の僕のように全く準備ができていない状態でこのワークをしても、
その体感・味わいが、神なのか?わかりにくかったり、
意識の状態によっては怖く感じることもあるだろうと思います。
(潜在的な恐怖だったりします。その場合はワークで一歩踏み込みにくく感じるでしょう)
ワークで、「あっ」と解った様な気がしました。毎瞬の体感は極小の点で起きており、実は距離を移動しておらず、極小の点の中で感覚や風景が変化していた。その変化が時間と距離という錯覚を作りだす。
「あなたは私」も解るような気がしてきました。
今までは部分的に他者は自分の鏡だと気づいていましたが、シェア会のあと、他者は100%自分であるような感じがしてきました。
誰と会っても自分を体験してるだけという感じで、それならば宇宙には自分一人しかおらず、宇宙=自分ということになりますね。
こうしたご体験もすごくよくわかります。
自分とはなんだろう?という話でもあります。
事実としては非常にシンプルです。後で紹介しますが、
「僕らという存在」・「僕らという体験」は、
- 不変不動の極小の<点>と、
- <点>以外のもの
に、集約されます。
<点>以外に、自我もエゴも肉体も他者も描写される…
- あなた=私、全て=私、宇宙に私しかない、
こうした「表現」が腑に落ちることも、実感することも - 僕らは実は無条件で至福であることも、
- 単純に自我から離れて在る、俯瞰することも、簡単になるでしょう。
真実、本質は「そう」なっていますから当然です。
「このワークを繰り返し練習したい」というお気持ちもよくわかります。
たったこれだけのことですが、探求の旅が終わってしまう可能性があります。
それだけに、ここを踏み込むことは無意識に止めてしまう、躊躇したくなること(無意識に)も自然だろうと思います。
やや閲覧注意の話、準備が必要でしょう
今回の話は結構そのままこの世界の成り立ちを説明するので、やや閲覧注意の話です。
とはいえ自分を振り返ってみて、昔の眠りが深い状態でこれを聞いても
「例え話」「単なる比喩だよね」と、無意識的にスルーしていました。
(=ステージゼロの時代)
本当に面白いんですが、準備ができていないと、何度きいても理解できなかったです。
僕の場合ははっきり聞いても頭に入らなったわけですから笑ってしまいます。
さらに意識が進んでなんとか理解したい、体感したいという段階
に入っても、なかなか「自分事」にはなりませんでした。
無意識的に巧妙にわからないフリをするかのようでした。
(=ステージ1の時代)
そして覚醒の段階に入ってもなお、この真実の一端に触れただけでも相当の恐怖でした。
自分1人しかいない、自分も今まで思ってきた自分じゃなかった。。
僕(の自我)はそこから全力で逃げました。
(=ステージ2の中期)
でも逃げられるはずもなく(真実ですから)、
それに包容され、ある意味言いくるめられ、
最後に納得、安堵、安全安心に・・というよりもそうならざるを得ないですね。
(=現在、ステージ2の後半)
今回、特に漫画の例では、かなり明確に説明します。
けれども、意識の状態によっては、昔の僕みたいに安全装置が働いて受け取れないこともあるだろうと思います。
ですからこれは次回のシェア会で、もっと詳しく、その時に参加される方々との質疑も交えながら、準備がそれほどできてない状態でも、真実を体感をしやすいように、機会を設けたいと思っています。
(ワークはすごくシンプルなので、今回の昼夜2回は、それぞれ別バージョンで簡単に誘導させてもらいましたが、次回以降は、ある程度丁寧にするほうが良さそうだと思いました。)
本ワーク練習会の開催案内が欲しい方・興味がある方は、プロフィールページ最下「問い合わせフォーム」からお問い合わせください。
照見五蘊皆空…ワークの仕組みを漫画の例から(アウトライン)
ワークは漫画でいうと、
原稿用紙上のコマ内のキャラクターである僕らが、作者の息吹、ペン先を感じようとすることです。
要は原稿用紙以外に意識をフォーカスさせるのみ、あまりにシンプルなワークです。
照見五蘊皆空…般若心経で五蘊は空であると見定めなさいと伝えられていますが、まさにこれを体感することにもなります。
(五蘊…色受想行識)
漫画は、平面の紙に描かれた線ですから…本当に「空」です。空でありながら色受想行識が(見かけ上)生じます。
もう少し詳しく言うと、
僕らは原稿用紙のコマの中が全てだと思って生活しています。
すべてコマの中に描かれていて、
それは普段、①外的な五感で外の世界を知覚して、②内的な五感によって体験しています。
①外的な五感+②内的な五感=世界(コマ内)を体験する
海の魚でいうと、海中が全てという前提で生きていて、その前提すら無自覚な状態です。
つまり、僕らで言うと主に外的五感、内的五感で体験する世界が、漫画で言うと原稿用紙のコマの中です。
当然ながら、原稿上に作者はいませんよね?
作者を感じるならコマの外を探すことになります。
なのでワークでは、この外的・内的五感じゃないところにフォーカスして、その先へ行こうとする、ただこれだけです。
*
僕もそうなのですが、このワークをする前に、
漫画でいうとキャラクターである自分がコマからハミ出て「自分は白紙に描かれた存在だった」と気づく過程がありました(後述)。
まさに、「照見五蘊皆空」。
「色・受・想・行・識」はすべて「空」である。
すべて白紙に描かれた線であったと確かめます。
さらに僕らは白紙という素材で一体であり自分も世界も分割不可能な一体なんだ、さらに漫画という創作という下では作者とも一体である、ワンネスであるという体験が事前にあったので、
(漫画でいうとキャラが消え、白紙に浸ります。これも後述します)
こうした経験があって、
「原稿用紙外にフォーカス」するシンプルすぎるワークを体験していた、ということがありました。
お釈迦さまが「照らし見ると五蘊は空であった」と言われるのは、
僕の体験に置き換えると純粋観照意識状態だと認識しています。
それは映画のスクリーンであり、漫画の原稿用紙です。
スクリーン・原稿用紙にどんな自我・エゴ・感情が描かれても、スクリーンはスクリーン、用紙は用紙です。
ミュージカルでいうと舞台が自分です。どんな演目でも舞台は舞台です。
そうならざるを得ないです。
(自分の本質はスクリーンであることは、スピリチュアルでも不思議なことでもなく実際的なことです。
例えば港区なり杉並で生まれ育ったら、それなりの自我を作って適用します。
それが大阪の下町で生まれ育ったら、やはりそれなりです。友達から何か振りがあったら、ボケるか、ノリ突っ込まずにはいられないでしょう。
アドルフヒトラーまたはマザーテレサと全く同じ環境で育ったら、彼らに近い人格になったでしょう。
それはまさに今世を生きるアバターです。自我が、アバターが、本質の僕らのはずはありませんよね。
でもそれを自分だと思い込んで生きるとしても、それもまたOKです。作者が描いているのですから。)
だから、次回はもっと時間を取って(90分~2時間)
この辺の仕組みも詳しく解説させていただくとさらに良いかもしれません。
ワークの流れ3つまず簡単に
ワークに話を戻すと、
僕らが全てだと思っているこの世界=原稿用紙上と、そうじゃないもの=作者・作者の息吹・ペン先を見分けるには、
①まずはそもそもこの世界をできるだけ丁寧に全てを把握することです。
②可能限りすべて把握できたら、それ(この世界・原稿用紙・コマ)を除外します。
③すると消去法的に本質(用紙外・作者・ペン先)が残ります。
この過程で、
内的五感も外的五感も、本質に比べれば「大差はない」と気づきます。
言い換えると、
通常で今世界で経験する「自分の外」も「自分の内」も「無いんだ」という気づき。
または、
「すべては自分の内側で起こっている」
あるいは
「すべては自分の外の出来事だ」
と悟ることです。
次回はこれをできるだけ丁寧に体験できるよう配慮させていただこうと思っています。
僕のこれまでの探求の末、見出した気づきであり、ワークです。
では本稿では続いて、スライド9枚、①映画の例、②漫画の例で説明していきます。
図1~7:広義・狭義のマトリックス。映画MATRIX・漫画スラムダンクの例から(詳説)
まずシェア会にあたり参加申込の際にこんなメッセージをいただきました。
マトリックス・この世界の仕組みを理解したい
空の感覚とはどういうものか知りたい
真実を知りたい
この世界のリアルさから抜け出して、緊張したり不安になったりするのを変容させたい
正反統合ワーク・質問の本質の授業で変容していく喜びを感じている。さらに新しい学びをしたい
現状を生きるのに必要だと思うので、参加したい
昨年より現実味が感じられなくなって困惑している。今という時をもっと認識したい
このようなご希望にも、本稿は少なくとも参照データとして生かしていただけるのでは、と思います。
個・自我 ・エゴは、全・根源・神を知りたい、感じたいと希求する。
垣間見たら触れたり一体となると、そこはかとなく喜びを感じたりすら安らぐように設定されているようです。
故郷から遠く長い間(見かけ上とはいえ)離れてきましたから故郷に帰りたいし、
例えば故郷を感じる味に出会うだけ(根源の一端に触れるだけ)でも心身が震えたりするのは自然なことです。
本当、安らぎ、喜びです。
(僕も昔は、「覚醒にしたがって外的な喜びに関心が薄れる」という話を聞いて、「そんなものかなぁ」と他人事でしたが。
単純に「お腹がすいた」時、何か不足を感じた時、3次元的に求め解決してもいいけれど、結局のところ神の氣をいただきたいだけですから、最初から氣を貰ってもいいんですよね)
最近、広義のマトリックス、狭義のマトリックスという、大きく2つに分類してお話してきました。
簡単にまとめると図の通りです。
図1:狭義のマトリックス…制限、支配、洗脳、人々を眠らせる仕組み、根源との分離を体験する
狭義のマトリックスは、制限、支配、洗脳、人々を眠らせる仕組みです。
僕もどっぷり浸って生きてきました。
世界人口のうち圧倒的大多数の方が、この中で生きています。
この中でお金が足りない、時間が足りない、そこへ行きたい、こうなりたい、などなど基本的に何らかの思い・意識の動きが生じたら、
この狭義のマトリックスから来ていると考えて間違い無いでしょう。
例えば僕は「せっかちの神様」のような両親のもとで育って、そうした性質はまだ残っています。
僕の両親も当然、狭義のマトリックス育ちです。
学校の先生も、友人たちも。
でもこれもこの世界を楽しむためのエッセンスではあります。
本当は無限時間or無時間ですが、時間が有限だと思うから、人生は甘美とも感じられます。
例えば、ディズニーランドで永遠に遊べるとしたら遊ぶ意欲も低下しそうです。
一方、今日1日だけ遊べるとなると、本気で遊べそうです。
時間が限られている、と思えるが故ですね。
狭義のマトリックスは支配でもありますが、文明を担ってきた面もある、とも理解できます。
僕が今、パソコンで本稿を書いているのもそのおかげでとも受け止められます。
広義のマトリックス…目醒め、この世界の仕組み・根源との関係もわかる・合一も可能
ただ時代が変わって、今、本当に狭義のマトリックスから広義のマトリックス側へ目醒める方々が増えてきました。
まずは、この狭いほうのマトリックスにはまっていたよねと気づく方が増えてきて、 自由になってきていますよね。
体感としては軽くなられて、 悩みが少なくなる楽になる、そのことが僕の周りでも本当に加速しているなと感じさせていただいています。
例えば「SNSで自己表現をすることに課題を感じていた。」「なかなか難しいです」と言う方が、正反統合ワークやワンネス体感ワークをされて、それが「できるなりました」とご連絡いただくことがよくあります。
自己表現することも、この狭義のマトリックスの中では、育ち方によってやりにくかったりしますよね。 本当に制限であり、眠りです。
というところから一歩一歩出ていくのが目醒めですし、最終的には全てから自由になることになります。
質問の本質の授業でいうと、最小の覚醒を一歩ずつデフレーミングすることです(それはもちろん質問により成されます)。
広義のマトリックスは、そこからの目醒め、脱却、自由。
この世界がマトリックスであることにも気づきも同時に生じます。
つまり、僕らが根源の産物であり、分離はない、不可分であることもわかるのが、この広いほうのマトリックスです。
狭義も広義も、根源が生み出すもの、という意味では同じです。
支配・洗脳等も、根源が生み出しています。
これが映画のマトリックスと比較検討すると理解・体感が深まるかと思います。
この図のようになります。
図2:マトリックス・仮想現実の中で目醒めても機械に搾取されている
映画マトリックスでは、マトリックスという仮想現実内で、人間を夢を見ながらも現実を生きていると思っています。
マトリックス・仮想現実内では1999年でした。
人間は機械に繋がれたまま、機械に電力を供給するための装置の一部として、機械に「搾取」され続けています。
映画の世界の現実では、「西暦2199年頃の、荒廃した地球の上での機械と人類との戦い」が起こっています。
(主人公がネブカデネザルの製造年を見るシーンがありましたね)
映画の中では登場しませんが、このマトリックス・仮想現実の中で、資本主義社会、洗脳社会も描かれているでしょう。
仮想現実の中で、さらに洗脳され、眠って、社会の仕組みとして生きるはずです。
二重に夢を見ているような状態です。
ということは、少なくとも、仮想現実内の洗脳から目醒めることはできそうで、
例えば僕なら覚醒、統合を志向して、何らかの修行をするかもしれません。
その結果、マトリックスの中にある洗脳社会から目覚めることができて、喜びを味わうかもしれませんが、あいかわらずマトリックスの中です。
もし機械がマトリックス内に5次元以上の世界も描写しているとしたら?
僕らがアセンションすることも、さらに根源すら用意しているとしたらどうでしょうか?
仮想現実内で、根源とのワンネスを体感したり、至福にもひたれそうです。
しかしそれでもマトリックス内、機械に「搾取」されていることには変わりはありません。
図3:この世界の根源と、マトリックスのコンピュータ
これを、この世界の仕組みと比較すると、
映画のマトリックス・仮想現実では、その中で支配洗脳されていても、脱しても、コンピュータに搾取されている…
映画の<機械・コンピュータ>と、僕らの世界の<根源>が対応するとしたら?
「狭義のマトリックス」では支配構造内で眠り制限・搾取され、「広義のマトリックス」に目醒めても、結局のところ、僕たちは、<根源>に搾取されているのでしょうか?
「僕らは根源に搾取されていない」と否定する証拠はなかなか提示できないかもしれませんね。
ただ、宇宙という作品(高次元も含め)を、コントラスト豊かな壮大なものにするため、といえば、慰めに、または喜びになるでしょうか。
(実際僕らが、作者=根源を感じる時、何とも言えない幸せ感に浸ってしまいますよね。)
では、「映画」というものをもう少し大きく見ながら比較してみましょう。
図4:根源と、監督・作家たち
マトリックスという映画、という枠(フレーム)広げると(=デフレーミングすると)、
監督・作家などが<映画という作品>を生み出していることが、当然ながら分かります。
ここで、僕らの世界の<根源>と、監督・原作者・作家・脚本家といった<製作陣>が対応します。
僕らがスタート地点で経験する<狭義のマトリックス>
目醒めて体験する<広義のマトリックス>を含めた
根源が生み出す<宇宙という作品>に
これが<マトリックス・仮想現実>も<人間vs機械の現実世界>を含む、
<映画マトリックスという作品>
が対応します。
映画は実際にはスポンサー・国家etcといった、監督・作家に影響を与える存在もありますが(単にエンタメとは言えないかもですが…どこまで遡るか?ですね..)、
こう比較すると僕らという「個の存在」と「根源」との関係性がわかりやすくなるでしょう。
例えば2つにまとめられます。
- ①根源次第で、全ては可能。因果関係の無さ
- ②しかし根源はストーリーを描く
ということです。
図5:①この世界は根源次第ですべて可能(しかも因果関係は無い)
映画監督も、根源も、どんなこともで描写可能
映画は、映画監督・脚本家の意向次第でどんなことでも描くことが可能です。
- どんなキャラクターであるか?
- どんなセリフを言わせるか?
- どんな思考をさせるか?
- どんな敵・味方、事故、病気、に出会うか?
- 事故や病気からどのように学ぶか?成長させるか?あるいはしないのか?
- どんな失敗、成功を経験させるか?
同じようにこの世界も、根源=作者の意向次第で何でも可能です。
(…と断言するのは言い過ぎでしょうか?話半分で聞いておいてください。しかし実際問題として「ルールは無い」「超自由」くらいに思っていて良いくらいではないでしょうか?)
ですから僕らの世界においても…
- 実はすべてはプラーナであると悟る
- 何らかのワークをすることによって速やかに心理学的に変容する・スピリチュアル的に(本質的に)目醒めること
- 今、何はなくても無条件で幸せである
- 今、まさに、目醒めて在る
- 「全」であり「個」であること
といったことを、少なくとも許容する材料になるでしょう。
(この世界では、「許容したものが存在する」という法則もあります。すべて見かけですが。真実は何の因果関係もありません。無条件です=後述)
あくまで話はんぶん程度に聞いていただければ十分です。
真実はこれでしかありませんから…。
ただもし今、殊更大きなトラブルに見舞われていないのに、
幸せ・嬉しい・楽しい、では無いのであれば、
まだまだ目醒める余地が残っている・伸び代が相当あることは
自覚しておいても良いかもしれません。
とりあえずは五体満足、多少の不調はあっても、今まさに物理的な暴力や災害に直面しているわけでもない、日常がそこにあるのであれば、相当ハッピー・最高で良いですよね。
創造物・描写に、因果関係は一切ない(見かけ上、有るとしか思えないけれど)
僕らの世界という、根源の創造物・描写に因果関係は一切ありません
見かけ上、有るとしか思えないのですが!
(それがまたいいんですよね)
これは漫画のコマを考えるとよくわかります。
例えば「スラムダンク」というバスケットの漫画があります。
三井という選手が、スリーポイントシュートを打つコマがあり、
次にシュートが入るコマor外れるコマを、作者は用意することができます。
そこに有るのは作者の意図です。どうストーリーを展開させるか?それによって入るコマも、外れるコマも描けます。
当然ながら、
- シュートするコマと、
- 入るコマor外れるコマとの間に、
因果関係は無いことがわかります。
僕らが住んでいる(と思っている)世界も、この仕組みは同じ。
だからこそ、何でも描写可能、創造可能。
パラレルを移行すること、ワーク一回で変容することも、何年ワークしても変容しないことも描写可能です。
ただし、根源は<ストーリー>を描きます。
②根源は<ストーリー>を描く
映画監督・脚本家たちがそうするように、
なんでも無条件・因果関係なしに創造・描写するのですが、
この世界の根源=作者も、視聴者や読者が、納得したり、楽しめるような
<ストーリー>を描く傾向が極めて強いです。
(傾向は強いですが、絶対ではありません=後述します)
これを2つの例で見てみます。
例①漫画スラムダンク
桜木花道(主人公) → 切磋琢磨・摩擦・衝突 → バスケットマンとして成長活躍
例えば、スラムダンクと言うバスケット漫画では、 桜木花道と言う主人公が、バスケット素人の状態から、バスケットに出会うことからストーリーが始まります。
体格的に恵まれて、素質がある花道ですが、作者は決して花道がいきなりプレーヤーとして活躍すると言う描写はしません。
漫画ですから、もちろんそんなコマ・ページを描く事は可能ですよね。、原稿用紙上に作者の方がそのようにペンを滑らせればいいのですから。
しかし、それでは読者が読んでいて全く楽しくありません。
実際、主人公の花道は、先輩や同学年の他のキャラクターたちとぶつかりながら、切磋琢磨して、
元は赤いリーゼント頭だったのが、途中で赤い坊主頭になると言うプロセスだったりを経ながら成長していきます。
だからこそ、読者が没入する、ファンにもなれるような作品に仕上がります。
すべて作者(=根源)の意図です。
スラムダンクだと具体的には原作者井上雄彦先生の意図。
この世界の根源と、僕らと世界の関係も同じです。
もう一つ、僕がリアル(と思っている世界)で経験した、花粉症の例も触れておきましょう。
例②花粉症
花粉症 → 心底理解(感謝、無くならなくていい) → 治る
僕は、公開のYouTubeの動画でもシェアしていますが、
花粉症を車の運転をしながら10分もかからない間に自分に質問を投げかけて、
その答えを受け取ると言う形で、
花粉症を解消した経験があります。
その過程で、花粉症のことを心底理解して、存在の内側からマグマが吹き上がるような大きな感謝が湧き上がって、それが体を突き抜けたように感じました。
「花粉症は僕にとってなくてはならないものだ」と本当に感謝が溢れた瞬間に、「治った!!!」と言う確信もやってきました。
3月の上旬と言うスギ花粉ピークの時期でしたが、その瞬間マスクを外して車のウインドウを開けて外気を吸って本当に治っていた!、と言うコマに至りました。
因果関係は無いわけですから、根源としては、花粉症がいきなり治ると言う描写も仕組み的には可能なのです。
が、このケースでは僕が、
- 「花粉症のことを心底理解する、
感謝する、無くならなくてもいいと感じる、
花粉症を抱きしめたくなるような心境になる」
と言うコマ(時空間)を経てから、 - 「治った!」というコマ(時空間)
を描写しました。
ここでもやはり各コマ(時空間)の間に因果関係はホントはありません。
ただし僕も他の方も、読者としてこのコマを見ていて納得できるように描いています。
そうは言っても、これはかなり突拍子もない経験です。
が、 僕のやり方を真似て、同じく花粉症を解消したり軽減された方、
身体の痛みを解消したり、和らげたり、消している方がおられます。
つまり、この世界で再現性も保たれているわけです。
根源=作者は、割とこういう描写もします。
物質より精神・波動、見える世界よりも見えない世界、・・・その先は根源へと、関心を引くような描写です。
これは物理次元・心理次元で考えても特別なことではありません。
こうして病気の意図を読み解くことによって、病気が軽減したり、病気が役目を終えて消えると言う経験は
世界中でなされていて、心理学に詳しい人であれば割と普通のことです。
ですから、やはり根源は、ストーリーを描く、読者や視聴者が閲覧していて、
全然納得できないような描写の仕方は普通はしないと言うことです。
僕らの世界は漫画ではありません、映画のような平面の映像でもありません。
時空間ですよね。
そういった時空間の流れを順番に閲覧するのが3次元世界になっています。
花粉症は10分足らずという時空間のコマでしたが、
花道の場合は何ヶ月・数年のコマを経ることになりました。
問題は、僕たちがこの仕組みを体感できるか?かもしれませんね。
図6:根源・この世界の仕組みをいかに体感するか?(自分事・真実になるか?)
僕たちが、この根源がこの世界を生成する仕組みをどのように体感・実感し得るのでしょうか?
僕はこれまで、大きくは「3つの可能性がある」と観測していきています。
- いきなり体験する人=ごくごく少数
(例:一瞥体験をして…) - ワークや探求の後、体験する人=少数
(例:10年の探求を経て…) - 体験しない人=大多数
(例:今世で体験していないor来世以降で…)
①いきなり体験する人=ごくごく少数
いわゆる一瞥体験によって、いきなり大きな覚醒、真実を知り、体感してしまう場合。
しかもそのまま覚者としてあり続ける場合です。
一瞥体験自体がまだ多くはありませんし、その一瞥でほぼ悟りに至るケースはさらに少ないようです。
つまり、一瞥体験だけでは、また眠ってしまい(ほぼ元に戻る)、②探求の旅がスタートもしくは、新たな段階で再スタートするケースの方が多い印象です。
僕も実際よくお会いするのはこのケースです。
②ワークや探求の後体験する人=少数
何らかのワーク、探求の末に、理解・体感・腑に落ちる・在り方生き方そのものになるケース。
今このケースは急速に増えてきている印象です。
とはいえ、全人口に対する割合からすればまだまだ少ないとも言えそうです。
例えば日本人が約1億人として、①または②の人が100万人いらっしゃるとしても1%です。
覚者100万人。100人に1人の割合・・・現在ではどうでしょう?
しかしそうした時代もすぐそこかもしれませんね。
③体験しない人=多数
まだ体験していない、今世では経験しないケース。
「頭では覚醒とか、この世界がマトリックスとかわかるんだけれど・・・」という状態。
「長く探求はつづけているんだけれど・・・」と言ったケース。
まだまだ全人口的にはこの③が多そうです。
これまで根源はこうした描き方をしてきたようです。
これからの時代はどうでしょう?
ケース②が増えそう。ストーリーは描くだろう
②や①のケースを増やしていくかもしれません。
作者は何だって描写可能です。
ただ、やはりストーリーを描く傾向も続くでしょう。
なんのストーリー展開もなく<①のケース>ばかり起こることは多分可能性が低くて、
何らかのワーク、探求の在り方として、いい方法・クリエイティブなものが普及したり、
それらに触れる人が増えつつ
結果、今までもよりも、ずっと短期間で気楽に覚醒へ進む人が増える・・
<②のケース>が増えていく。
そんな描写になりそうだと感じています。
さらに
こうした仕組み、「なんでも描写可能」「因果関係の無さ」「ストーリーを描く」と、
「それをどう体験するか?」は、
漫画の作者、ペン、原稿用紙、コマ、キャラクターが一番わかりやすいと思っています。
図7:漫画だと、「なんでも描写可能」「因果関係の無さ」「ストーリーを描く」「どう体験するか?」が分かりやすい
作者=根源、原稿用紙=ゼロポイントフィールド、コマの中=3次元&高次元世界
僕らの世界でいう根源・神は、漫画では作者。
原稿用紙とペンがゼロポイントフィールド。ここから何でも生み出します。無条件、絶対的です。
上図でコマの中に人影があります。このキャラクターが僕らです。コマ内の描線です。
コマの中に、<狭義のマトリックス>も、<広義のマトリックス>も描かれます。
僕らが
<狭義のマトリックス>で支配・洗脳・コントロールされる時代も、
目醒め・覚醒し、<広義のマトリックス>に移行し、魂の人生・光の道を歩むことも、
やはり、コマ中に描写されます。
高次元世界も、コマの中。
作者・根源以外のすべて、原稿用紙上です。
いずれにしても作者のコントロール下で、あるいは加護の下、恩寵の下にあります。
実際の漫画を考えてみるとわかりますが、
全てのコマは前提条件なし、作者の意図次第で、3ポイントシュートを打つコマの次に、シュートが入るコマを描写することも、外れるコマを描写することも可能です。
純粋に描画ですから、これはあまりに当然ですよね。
だから、僕らが何らかのワークをして、変容するコマに行き着くのか?変容しないコマに行き着くのか?
根源は本当に無条件に何でも描写可能です。
ただ、僕が長く、自分のことも、みなさんのことも観測してきた結果、この世界の作者は、何らかのワークをして、全く変化しないという描写はしないようです。
ただ、その変化の量が大きい・小さいはあります。
さらに、小さい変化でも大きい変化でも、僕らキャラクターの顕在意識で自覚できるかどうか?です。
自覚するコマを用意することも、自覚できないコマを用意することもあります。
これもよく有るのですが、
キャラクターが色んなワークを経験して自己観察力が増すコマを経て
ワークをして変容を自覚できて喜び・意義を感じて、さらに実践して変容を重ねる、十分な意識の成長・拡大のコマに至る、
そんなコマの流れがよく描かれます。
キャラクター側すると、順調だな、幸せだな、成長しているな、と感じます。
人間・自我の僕らかれすれば、ハッピーな状態です。
では次に、
<この世界=漫画・マトリックス・仮想現実だと体感する・悟る可能性>についてです。
僕は<3つのアプローチ>に親しんできました。
図8:この世界=漫画・マトリックス・仮想現実だと体感する<アプローチ3つ>
その<3つのアプローチ>とは、
1、キャラクター(個)が、コマからはみ出る体験
2、キャラクター(個)が消え、白紙に還る、作者と一体となる体験
3、キャラクター(個)がコマ内に居ながら、描写すべてから作者のペン先を感じる
です。
1、キャラクター(個)が、コマからはみ出る体験
漫画の原稿用紙(白紙)上に、自我、自分の肉体も、他者も、世界も、高次元世界もあると気づく体験です。
キャラクター(僕ら)が、コマからはみ出て真実を見てしまいます。
自分も、他人も、世界も、描かれた線によって出来ていた、と気づきます。
真実は、<原稿用紙上のコマ+描線>だと気づきます。
映画に例えると、スクリーン上にアクション映画も、ホラー映画も投影されますが、真実は<スクリーン+投射光>だと気づくことです。
僕らの本質に、例えばアドルフ・ヒトラーも、マザーテレサも描写されうるわけです。
これは僕がお伝えしているワークでは、「正反統合ワーク」が対応します。
純粋観照:全ては白紙上の描線・描画orスクリーン上の映像だと気づくワークです。
(コマからキャラクターがはみ出ますから、基本的には「個」は残っています。
次の「2、キャラ(個)が消え、白紙に還る、作者と一体となる体験」とは異なります。
ただ、正反統合ワークでも、一瞬は「個」が消える体験をします。
これは「拍手」「柏手」と似ています。
正・反の統合は、陰・陽の統合です。
柏手の掛け声として「いよー!」と言っているようですが、「いんよう〜!(陰、陽〜!)」と言っています。
柏手は陰陽の統合をして、「パン!」と音を聞きます。
(実際、統合、浄化が起こります)
この音というものが面白くて、手を打つと一瞬だけ聞こえて、消えます。
これと、正反統合ワークの、個が消えて、非個人の純粋観照意識に同一化する瞬間が似ているんです。
僕らは、当たり前に、<音>がこの世界に<存在>すると思っています。
触れるもの、見えるものと同じように、聞こえて当然と思っています。
確かに存在するんですが、当然ながら、スマホ・肉体・空気のように物質としては存在していません。
光は粒子の性質があると観測されています。
僕らの「見る」感性は、スマホに光が当たり、反射した光が眼球に飛び込むことで起こります。
粒子として、この世に存在すると思うのは、自然です。
しかし、音は、例えば空気や水という<媒体の振動>を通して存在していて、空気の窒素分子、酸素分子の振動で、その振動が僕らの鼓膜に到達し、やはり「鼓膜の振動」として存在し知覚もできます。
もし空気という媒体がなければ、僕らにとって音は存在しません。
イルカさんたちにとっては、海水という媒体がなければ、仲間同士でコミュニケーションすることはできません。
つまり、音という物質も粒子も<この世界には存在せず>、
しかも拍手の場合、<一瞬だけ生じて消えます>。
正反統合ワークでも、<通常の五感では知覚不可能な、この世界に存在しない>、非個人の純粋観照意識に<瞬間的に浸ります>。
拍手の音も、純粋観照意識も普通にはこの世界に存在せず、普通、一瞬で消えます。
しかし、一度聞いた拍手の音を僕らはいつでも思い出せるように、一度体験した<純粋観照意識>はいつでも思い出せ・体感できます。)
2、キャラクター(個)が消え、白紙に還る、作者と一体となる体験
2つ目の可能性・アプローチは、キャラクター(個)が消え、白紙に還る体験です。
さらに、作者・根源をもっとも身近に感じ、さらに一体となりえる体験になります。
これは「ワンネス体感ワーク」がそのまま対応します。
これは、個が消える時間、ワンネスの体感は一定時間持続します。
僕たちは根源からこの世界に来ていて、もともとがワンネスで、見かけの分離をしていても、ワンネスです。
でも、それが「見かけ」とは到底思えないので、「ワンネスに帰りたい」と希求するようにデフォルト設定されています。
(無自覚な意識状態が多いですが)
ただ、こうしたワンネス体感ワークのようなことをして根源に還ったら、還ったままになるか?というと、そうならないことが普通です。
また「個」に戻ることが普通です。
(ただし、ワンネスの味を知った「個」です)
ワンネスに還ったまま、という描き方は、作者はほとんどしないようです。
なので、一定期間滞在したら、この次元・肉体に意識がもどるような質問が起こったりして、そのような意識の動きが生じて、また個に戻ってきます。
1、コマからハミ出る体験も
2、原稿用紙・白紙に浸る体験も
不思議な、あり得ないことのように思われるかもしれませんが、これはどなたでも再現可能な、割と普通のことです。
本当に不思議なのは次の、3キャラクターがコマの中に居ながらも<作者のペン先>を感じてしまう体験です。
3、キャラクター(個)がコマ内に居ながら、描写すべて(自分、世界..)から作者・作者のペン先を感じる
3つ目の可能性・アプローチは、
キャラクター(個)がコマ内に居ながら、
描写のすべて(自分も、人も、世界..)から
作者・作者のペン先(根源・根源の息吹)を感じる
体験です。
1のようにコマからハミ出るわけでもなく、2のように白紙に浸るわけでもないのに、
この体験ができることは、僕は今のところ不思議だな、面白いなと感じています。
しかし分かってしまえば当然のことなので、今のうちにこの新鮮さを楽しんでおきたい心境でいます。
これは1、2のアプローチに比べると、ちょっと簡単じゃないかもしれません。
体験できるorできないには、準備ができているかどうか?が割と大きく影響します。
これは、3次元世界脱出ワークが対応します。
その準備ができる質問の本質の授業講座3.0を受講中または修了された方向けのシェア会にてお伝えしています。
さらに1のアプローチ、2のアプローチも体験できている方がベターです。
- 1、キャラ(個)がコマからはみ出る、白紙上に自我、体、世界..があると気づく、正反統合ワーク、(純粋観照:全ては白紙上の描線・描画orスクリーン上の映像だと気づく)
- 2、キャラ(個)が消え、白紙に還る、作者と一体、ワンネス体感ワーク
- 3、キャラ(個)が、コマ内の描写すべて(自分、世界..)からペン先・作者を感じる、3次元世界脱出ワーク(質問の本質の授業講座3.0受講者向け)
図9:世界の仕組みを体感する・作者のペン先・根源の息吹を感じる、第4の試み
先日のミーティングでシェアしたのは1、2、3とは違う、第4の試みです。
照見五蘊皆空、色・受・想・行・識は空であると少なくとも相対的には悟れる可能性は結構あると思います。
照見五蘊皆空、色・受・想・行・識、全ては「空」であると気づく体験、悟る体験。
1、正反統合ワークと似ています。
異なるアプローチなので、この次元に無い純粋観照意識(白紙・スクリーン・虚空)に到達する・浸るわけでありませんが、準備ができていれば白紙の一端には十分気付けます。
僕らという存在、人間という体験は
不動不変の極小の<点>+データ、によると確かめるワークです。
世界は(3次元・高次元を含め)データとして表現されていると気づきます。
データとは、座標(位置情報)、主に五感(外的・内的)により構成されます。
詳しくはシェア会でお伝えしますが、下図のようになります。
映画マトリックスでモーフィアスがネオに説明したように全てがマトリックスです。
(1作目、モーフィアスのセリフが秀逸です。)
僕たちの外界を構成する世界も、内側も思考も感情も自我・エゴも、制限されたマトリックスによって育まれているし、そこから出したとしても、広義のマトリックスの中でもあります。
根源以外は、マトリックス。もしくは原稿用紙です。
漫画の原稿用紙の上に、作者のペン先は無い(完成された漫画の上にはペン先は無い)ですよね。
つまり、描画された個がペン先を感じようとするのであれば、原稿以外を探す必要があります。
僕らで言えば、通常の外的な五感、内的な五感以外を探すことです。
そのために何が必要か?シンプルすぎるワークですが、次回は解説から詳しく、誘導も参加される方々の進み具合を拝見しながら、丁寧に進めていければと思っています。
今からすごく楽しみです。
僕らの中には、色んな自分・プログラムが存在して、自我・エゴの構成要素になっています。
時には問題、症状も起こしてくれます(見かけですが)。
こうしたことも、個人の所有か?それとも全体の所有か?もわかりやすくなりそうですね。
つまり読み解く、解決もしやすくなる、ということです。
もちろん、そのように根源・作者がストーリーを描くということですね。
この4つ目のアプローチは「オンラインコミュニティSaniwa2nd」で練習します。
詳細はこちらをご覧ください。
↓↓↓
心理学・物理学・スピリチュアルを統合した3講座を運営しています。
(1)まずは自分軸を取り戻す(眠りを卒業する)
★「質問の本質の授業」オンライン講座
本質・ワンネスを思い出すベースとなる講座です。
5次元意識・時間の使い方、現実創造もカバーしています。
質問を通じて多次元意識も思い出します。
まずはここから。眠りを抜けないと始まりませんよね。
(2)ポジティブ・ネガティブ、光・闇…二元性を超えた「純粋観照者」を体験する
★正反統合ワークオンライン講座
ワンネスに還る前に通常通るのが「純粋観照者」です。
人間意識とはまったく違うクリアな意識を思い出します。
「これまで自分がいかに小さかったか!」ワーク後に驚かれるでしょう。
(3)そしてワンネスを思い出す、ワンネスへ浸る
★ワンネス体感ワークオンライン講座
そしてついにワンネスへ…「純粋観照者」さえも包含する根源の意識を体感します。
一度味わったスウィーツの味は、肉体次元でもいつでも味わえるようになります。
「ワンネスに還ったらワンネスそのものじゃないですか?」
その通りです。ただ、ワンネスに浸ったままだと歩くことすら危なくて
人間の肉体体験に戻るには、人間意識とワンネスをブレンドするくらいがちょうどいいんです。
しかし現象界の全てが変わることになります。