前回に引き続き、先日のシェア会の後に質問をいただいた、並木良和さんの「100の位置」「ポジティブ51%・ネガティブ49%の意識」とゼロポイント、現実創造との関係について僕の感覚をシェアします。
前回の記事はこちらです。
この記事と同じ内容の動画です。
並木良和さんの「100の位置」と、ゼロポイントの関係
今回は、まず並木良和さんが言われる「100の位置」と、ゼロポイントの関係について僕の理解・体験を話します。
そもそも「100の位置」とは、僕の認識ですが、本質の自分、ハイヤーセルフともっとも繋がれる位置・意識状態とか波動です。もし現象というスクリーンにべったり着いている状態をゼロとすると、そこから10、20、30…と離れていって、100離れた状態で、この次元に居ても外に影響されにくくなります。
例えば、苦手な人と居たり、仕事とか健康状態が思わしくなくても、自分で在ることができて、魂の声を聞くなり、本当のインスピレーションを降ろすなりも、断然やりやすいです。だから、単純に身体が痛い時には「100の位置」の意識の「し甲斐」があります。もう少し言うと、体の痛みは僕らを「100の位置」に戻してくれるパートナーです。
ただ、「100の位置」だと、例えば家族とも心理的な距離を置くようでもあるんですけれど、その人の表面的な言動にとらわれずに済むので、かえって、その人の本質に意識を向けやすい位置でもあると、僕は感じています。つまり、自分のハイヤーとも、相手のハイヤーとも、あるいは自然といった外部環境とも繋がりやすい感じがします。
ちょっと「言葉」として似てて紛らわしいんですが、スクリーンにべったり張り付いた状態を数字で表現したときの「ゼロ」ではなくて、
すべてを生み出す場としての「ゼロポイントフィールド」は、僕らの肉体も、意識も、「100の位置」にいる時の自分も、いない時に自分も、すべてを生み出しています。
ここで世界を脚本家が白紙の上に描くストーリーに例えると、現世で活躍する自分は舞台上の役者です。
「100の位置」にいる時の自分を脚本家の意図を理解しながら演じる役者とすると、「100の位置」に完全にいない時の自分は、役者であることをなんと忘れてしまった状態で、舞台にいます。脚本家とか演出家とかの意図も当然わかりません。もちろん周りの人が役者であることも忘れてます。
(これはかなりやばいですよね)
「100の位置」にいる時の自分であれば、脚本家の意図もストーリーも理解しながら、自分なりの表現を入れたり、アドリブもいい形で入れられます。役を演じることを楽しんでいます。
この場合は白紙が根本的なゼロポイント、舞台は二義的なゼロポイントです。
なので、もし(見かけとは言え)ゼロポイントから現実創造をするなら、舞台上で演じるなら、僕らとしては「100の位置」に居ないよりは、居る方がいいだろう。と思います。
役者が、監督とか演出家の意図を無視して、自分が役者だということすら忘れて、わがまま放題に行動するとか、ありえないです。
でも人間の僕でいうと、親とか学校に影響されて、社会に洗脳されて、その社会が良しとしたものに意識を向けてきました。そこから脱しようとしたのが僕は大学出てからくらいでしたが、ハイヤーと完全に分断されたように、ハイヤーのことすら知らずに、例えば監督とか作品の意図を無視した生き方をしていました。これは人間世界では普通のことですが、結構恐ろしいことをやっていたなと思います。
ゼロポイントを意識した生き方はしたいと思ったら、「100の位置」に立つことはほぼほぼイコールかなという感覚でいます。
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並木良和さんの「ポジティブ51:ネガティブ49の意識」とゼロポイント
次に
「ポジティブ51:ネガティブ49の意識」とゼロポイント
についてです。
まず並木良和さん言われるポジティブ51%、ネガティブ49%というのは、「本当の統合の方向、二極の光と闇を超えた本当の光で僕ら在ることができる時に、意識の状態とかエネルギーを見ると、こういう比率になっている。なので、僕らが本当の光に戻ろうと、本当の統合をしていこうとするときに、一つの指標になる数字」と僕は認識しているのと、体感もしています。
(二極の闇から、二極内の光へ行こうとする意識だと、ネガティブをダメなものとしたり、遠ざけようとすると思うんですけれど、本当の光は二極内の闇も光も、両方受け入れたり、見守る感じだったり、少なくもジャッジはないです。すごくすっきりした感じです)
これは、できる限りでもいいので「100の位置」に立つことができると、自然にこういう意識なりエネルギー状態になると感じています。
なので、この「51:49」とゼロポイントとの関係は、「100の位置」との関係をそのまま応用ができますが、その前に、僕がこの比率(「51:49」)のエネルギー・意識について、もう少し具体的にどう理解したり体感しているか話します。
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当然ですが、この宇宙は(根源は)、ポジティブもネガティブも包含し、許容し、どちらも超えています。映画とか小説上にポジティブもネガティブも、二極が描かれるけれど、ストーリー内にあるだけで、ストーリーから出てしまうと二極はありませんよね。
宇宙でいうと、宇宙があること自体はポジティブでもネガティブでもない、根本的にはニュートラルだと思います。とすれば、51%の若干ポジティブじゃなくて、50:50でいいような気もします。ただニュートラルという言葉も、少なくとも2種類あります。二元性のなかのニュートラルなのか?それとも二元を超えた意味でニュートラルなのか?ということです。並木良和さんがこの話題でいうニュートラルは後者だと思います。
映画でうと、ストーリー内はポジティブ・ネガティブ50%ずつでもいいし、ヘルマンヘッセの小説みたいに8割くらいネガティブな表現があってもいいし、ポジティブ・ネガティブのブレンドは自由です。
ですから僕というストーリーと、「あなた」というストーリーは、それぞれのブレンドがあります。ただ、僕もあなたも、真の光の僕らは51%なんです。でもわかったような、まだ分からないような感じかもしれませんね。
これはどういうことなんでしょう?
例えば
「今日の天気は晴れ、最高気温29度です。」
と聞いたとします。
「晴れ、最高気温29度」と聞いてどう感じますか?どう聞きましたか?こんなことにももうすでに、良い・悪いの判断がうっすら生まれたりしませんか?
僕がこれをもし4月に聞いたら、「え、まだ4月なのに」って思ったり、8月に聞いたら「29度ならかなり過ごしやすいな。」とか…。今日の天気は晴れ、最高気温29度ですという情報を、なんの色付けも・意味付けもなく、「素」のまま受け取ることって、結構難しくないでしょうか?本当は「晴れ、29度」は「晴れ、29度」そのままなんです。
ここで宇宙もしくはストーリーを考えてみると…
普通には、この宇宙が清濁併せ持って存在して、地球というフィールだけ見ても、最大ポジティブから最大ネガティブまで、ものすごいコントラストがあって、宇宙の存在そのものも、本当はポジティブでもネガティブでもないと思います。
でもやっぱり、二元性の世界で生きている僕としては、何か存在しているものに「存在する意味」とか「存在意義」とかをもちがちなんです。普通に生きていると。自分自身にも、自分がした仕事とかにも「存在意義」を感じたいですよね?
同じように、宇宙が存在する・完成された小説がある・映画がある…。例えばヒューマンドラマがあるとして、それを好きだと思う人も、そうではない人もいるけれど、一つの作品があること自体も本当はニュートラルなことなんだけれど、この世に一つ作品がある…それを僕が見ないとしても、二元性の僕は、「在ること自体は若干ポジティブ」に感じる意識なんです。映画という一作品が造られることも、根源よって宇宙が造られることも、ポジティブもネガティブも併せ持つのは、「結局ポジティブ(※)」だと思いたい意識なんです。
でもこの「結局ポジティブ(※)」のポジティブは、「二元のポジティブ・ネガティブ」を超えた「ポジティブ」なので、本当はポジティブじゃないんですけれど、二元性の僕からみると「ごっちゃ」にしがちです。同音異義語なので本当は全く別です。
それが頭でわかっても、普通には、この現象界・宇宙というストーリーを抜けた意識は、本当に持ったり体感したりは、しにくいですよね?ですから、ポジティブ・ネガティブを超えた、本当のニュートラルもなかなか理解したり、体感したりはしにくいので、僕のような「二元性の意識」にわかるように表現すると51:49のエネルギーとか比率となるのだと思います。
(本当はそんな数値すら超えてるんですれけど。。)
以上が僕の理解ですが、だとしたら、二元性の数値を使って「二元性を超えたもの」を伝えようとするわけですから、並木さんの51:49は、ある意味すごいアイディアだと思っています。
(もちろん、これが瞑想で個を超えた状態とか、例えば正反統合ワークを体験された方なら純粋観照意識とか、ワンネス体感ワークで個を無くした状態とか、質問の本質の授業であれば、講座3.0の第1ステージ「多重デフレーミング」か、第2ステージ「デフレーミング3.0バージョン」で、すべてのフレームから抜けた意識状態なら、この辺のジャッジはほぼゼロになるか、僅かに生じてもそれを眺める側にいます。なので、なんのジャッジもない、思考もない、ポジティブもネガティブもない意識を確かに体感できて、それは確かに表現すると「若干ポジティブ」で合ってるんです。でもそれがつい嬉しくて51%からやや53%とかに振れるとかはあるもしれませんが…でもそれは自由ですよね。ただ若干ポジティブというのは、少なくともわかりやすいです。)
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3次元意識が「時間・空間」を超え難いことと似ている
これはもうひとつ別の例えでいうと、「宇宙は多次元で、時間・空間を超えた世界がある」と言われても、この3次元で生活しながらだと、それは想像しずらいケース」と似ていると思います。これとも比較するとさらにわかりやすくなります。
僕らは例えば、何月何日の、11時11分11秒に自分の部屋にいるとして、それを「空間A」としたら、その0.1秒後に、「空間A’」に居て、次の0.1秒後に「空間A’’」に居る、というように、空間を順番に体験することで、時間の流れの中にいるように感じます。
これがほぼ絶対的なルールのように体験しているのに(僕の新しい「質問の本質の授業オンライン講座3.0」ではこの時空間を超えた意識・視座に回るトレーニング法をお伝えしていますが、そういうちょっと工夫でもしないと)時空を超えた意識とか状態ってやっぱり難しいと思うんです。
同じように僕らは二元を超えた世界も意識も、ちょっとわかりにくい。強いて表現するなら若干ポジティブ51%となる、実際体感して自分の波動とかエネルギー状態を「二元的な表現」とか3次元の体感でいうと、「確かに若干ポジティブですね」となります。高次元の体感をむりやり3次元に降ろしている、と言ってもいいと思います。
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「100の位置」「ポジティブ51:ネガティブ49の意識」とゼロポイント・現実創造
そして、ゼロポイントに話を戻すと、作家がゼロポイントという原稿用紙に、僕らからすれば「ポジティブなこと」も「ネガティブなこと」もストーリーとして描きます。中には、すっごいお腹が痛くなるとか、僕らには耐え難い苦痛も描かれるかもしれません。でも作家もストーリーも最初から最後まで、この「正」「反」を超えています。
でも三次元の僕らは、肉体も、現象界も運営しています。さっきの気温の話で言うと気温に応じて水分を摂ったり、塩分を摂ったり、自分の家庭菜園があればそれを管理したりとかが、必要です。そこで作者みたいに完全に二極を常に超えるのは簡単じゃないし、二極を体験しにきている側面からすれば、常に常に抜けているのはかえって不粋なように理解されます。それはせっかく映画を見にきているのに、ぜんぜん入り込まずに冷めて観る感じです。
僕らが根源の作者までいますぐに戻らないまでも、例えば魂レベルで望むことだったり、ハイヤーセルフから降りるインスピレーションなり、受け取るには51:49はできるだけ意識したり指標にするには、「100の位置」と同じですがかなり意義があると思います。なぜなら、デフォルト設定の僕だと現象界に反応しまくって、上からの情報もしくは深淵のインスピレーションを受け取れなくなるからです。俳優であることを忘れて舞台上にいる感じです。
シェア会ではそのためには臍下丹田(お臍の下の丹田)がひとつの鍵になりますよね、という話でも盛り上がりました。丹田にちゃんと乗って自分で在れることで、ハートで受け取る情報が、例えば「恐いのか」「怖さの中にわくわくがあるのか」「行けといってるのか」「今は待つ時だと言ってるのか」分かりやすくなります。臍下丹田がその土台になります。
根本の作者であれば、当然ながら、僕らが丹田からはずれるかどうかも、ポジティブもネガティブも俯瞰して描いています。二元世界の僕らと同じように体験することはありません。もし「彼」に意図があって、それを僕らが観察できるとしたら、少しでも共有できるとしたら、僕らがどんな体験をしてどんな学びをしたり成長をしたり遊んだり喜んだりするにしても、強いて言えば創造の行為があること自体はポジティブに捉えると思うんです。「もし捉えるとすれば」ですけれど。
でも二元を生きる身としても、二元の世界で創造していこうとするとき、「彼」と同じか、近い波動でいようとすることは、何かと助けになると感じています。前の動画、前の記事でシェアした創造の第一段階に集中して、第二段階は極力気にしないようにすることも断然やりやすくなります。
以上長くなったんですけれど、100の位置、ポジティブ51:ネガティブ49の本当のニュートラルな意識と、現実創造というテーマでシェアさせていただきました。
心理学・物理学・スピリチュアルを統合した3講座を運営しています。
(1)まずは自分軸を取り戻す(眠りを卒業する)
★「質問の本質の授業」オンライン講座
本質・ワンネスを思い出すベースとなる講座です。
5次元意識・時間の使い方、現実創造もカバーしています。
質問を通じて多次元意識も思い出します。
まずはここから。眠りを抜けないと始まりませんよね。
(2)ポジティブ・ネガティブ、光・闇…二元性を超えた「純粋観照者」を体験する
★正反統合ワークオンライン講座
ワンネスに還る前に通常通るのが「純粋観照者」です。
人間意識とはまったく違うクリアな意識を思い出します。
「これまで自分がいかに小さかったか!」ワーク後に驚かれるでしょう。
(3)そしてワンネスを思い出す、ワンネスへ浸る
★ワンネス体感ワークオンライン講座
そしてついにワンネスへ…「純粋観照者」さえも包含する根源の意識を体感します。
一度味わったスウィーツの味は、肉体次元でもいつでも味わえるようになります。
「ワンネスに還ったらワンネスそのものじゃないですか?」
その通りです。ただ、ワンネスに浸ったままだと歩くことすら危なくて
人間の肉体体験に戻るには、人間意識とワンネスをブレンドするくらいがちょうどいいんです。
しかし現象界の全てが変わることになります。